はじめに
第一節 暗号解読の準備
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
第二節 観自在菩薩による衆生救済宣言
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
第三節 色即是空と人間観
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
第四節 生命活動の場
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
第五節 「空への帰還」
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
第六節 仏教の再出発
無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
第七節 般若波羅蜜多による悟りの完成
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故
無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
第八節 未来への長期戦略
故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実不虚
第九節 衆生救済の行動指針
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経
結び
暗号は解読された般若心経
はじめに
般若心経の、音とリズムには、独特のものがある。
それを聴くと、母が仏壇の前で日課で唱えていた、子供の頃の、明確な記憶がよみがえる。私は、その脇でずっと聴いていたことから、当時の私でも、その音とリズムを半分くらいは、諳んじることが出来ていた。
その私は、物理学を学び、科学の学術研究者と成り、その後会社を興して経営者と成り、同時に人工知能の開発をしていて、七十歳になった今も、宇宙と『人間』への理解を深める事を、ライフワークとしている。この探求の道の、最初に出会ったのが母が唱えていた般若心経であった。
何時だったか、仏壇に置いてあった般若心経の小さな経典を開いて読んで見ると、何か当然のように、その意味が行間まで含めて、すんなり理解出来ることに気づいた。
私はそれを、般若心経の解釈として、大切にしてきた。
その時点では、仏教特有の語句を吟味して理解していたわけではないのだが、それでも意味は十分に伝わってきた。
自分の人生体験とも重なり、この解釈で十分に有難く、実にすんなりと無理なく理解できるものであった。
この私の人生体験については、一部後半で述べるつもりだが、私は与えられた独自の世界で、「宇宙との一体」を体験し、それを体得することが出来た。
私の体得したそれを空とするならば、空とは《宇宙の理念》であり、時間軸を超越した高次元の「場」としての『超実体』である。まさにそれが空という全肯定の実在であり、完全なる存在であり、それでこそ、昔からなじんでいた般若心経の話のつじつまはぴったり合う。そして、私が体験した空に至る手法も、般若心経の示している空に至る説明と完全に合致する。般若心経の全体像も明確に成り、微細に至るまで、全く矛盾の無い解釈が成り立つ。
結論から言うならば、二百六十二文字に一文字も無駄は無かった。そしてそれは「仏教」でありながら、仏教を超越していて、過去と現代の宗教を全て包含する程の、見事なまでの人類普遍の真理であった。
ところが、私にとってはこれほどの般若心経でありながら、最近ある時、テレビで般若心経の解説を聴く機会があって、興味深く聴いていたが、私が理解していた内容とはかなり違うものであった。そこでの空の意味は「実体が無い」とするもので、その内容は実に矛盾に満ちていて、しかもそれは、空虚で虚無的に聞こえた。そして般若心経の全体の趣旨に関しては全く聞くことが出来なかった。
その後ずっと、その違いが気になっていて、どうしてもどこかで解決したいと思っていたが、ある時、急遽決心して手当たり次第に四冊の般若心経の解説書を購入してきて、一気に読んで、積もった「モヤモヤ」の解消を試みた。
しかしながら驚くことに、その書物の全てが、先に聞いた虚無的な内容と大同小異で、空とは「実体が無い」という点で共通しており、私の理解とは大きく異なるものであり、何よりも、どれを取っても極めて難解であり、納得性が乏しく、般若心経の全体像に関して、明確な解釈は存在しなかった。
仏教用語の語句の説明に終始し、語句の微細に入り込んで、語句の解釈に成ってはいても、最も知りたい般若心経の全体像が全くつかめないものばかりであった。「実体が無い」と言いながら、その無いものを繰り返し説明し、さらに分類しようとしたり、実に複雑怪奇で、内容が矛盾しているように思えて、次第に疑問を募らせていき、その気持ちを消し去ることが出来なくなっていた。そして何よりも、どれをとっても、解説者自身が、般若心経を持てあましていて、困り果てている様に見えたのが、印象的であった。
さらに言えば、仏教の語句や歴史の解説には成っているのかもしれないが、般若心経の解釈として一貫性のある内容とはとても思えないものばかりであった。つまり、私の「モヤモヤ」から始まったここ一ヶ月の調査で分かったことは、「未だ世の中には、一貫性のある般若心経の見解というものは存在していない」という事実が明確になったことであり、これが重要な収穫であった。
私の理解している般若心経は、自分にとっては心底納得の出来る内容でありながら、買い込んできた解説書から分かったことは、未だ世の中には、一貫性のある、矛盾の無い、明快な趣旨の般若心経の解釈というものが存在しない、という事実であった。それを知ってしまった今、私としてはこのまま素通りも出来ない気持ちに成り、それならこの機会にと、私の理解している般若心経を整理して、世に出して見ようと思い立ち、今回の執筆に至った次第である。
私は得難い体験を沢山積んだことから、私だから出来る般若心経の解釈というものがあって良いと確信している。それは買い込んだ複数の解説書にあるような解釈とはかなり異なるが、気持ちを込めて、この『暗号は解読された・般若心経』を世に出すことにした。
般若心経の解釈を、現代の私が執筆するにあたって、私は現代用語の語彙の豊富さに感謝し、十分にこの恩恵を受けるつもりでいる。そしてさらに、科学技術の発達により、比喩となり得る題材の豊富さは、今の時代に生きて執筆する者にとって、何ともすばらしい環境である。
一度は般若心経に、関心を持ったことのある人が、本書を手にとって読んでいただければ、必ずや「成るほど、そういう事だったのか」と言っていただけるものと確信している。
私は本書を著すために、さらに様々な仏教関係の資料を集めたが、そこに沢山の珠玉の言葉に満ちている一方で、読めば読む程、全体像が見えてこないことに、歴史の中での混乱を感じ取った。そして『この混乱の中に自ら入って行ってはいけない』という、強い拒否反応を覚えたのである。
宗教は衆生救済が目的でなければならない。そして薬は効くことが重要で、効かない薬はどんなに理論が完璧でも全く意味がない。そして効かない薬は捨て去る以外にない。ただし効く薬を見つけたら、その効能を理論的に説明することは可能である。薬の効果の理論付けは後付でよい。
そこでだが、私のこの執筆作業とは体験が先にあって、それを般若心経に投影して理論付けしていることになる。即ち、理論は、後付けである。
私は、私が納得している、宇宙の姿を、そのまま般若心経に投影し、私が読み解いた般若心経に秘められた衆生救済の道を私の心に素直に従って書き進めたい。
この場面は、あえて私の理解と直感に従って、必要不可欠の仏教用語を再定義し、さらに定義論争を避けるため、出来るだけ現代用語を多用し、現代用語による造語も一部遣って、可能な限り単純な論理で、書いてみたいと思っている。
私の体験から、隠された行間を読み取り、直訳的な語句の意味よりも、内容そのものを重視して、般若心経全体の主旨を明確にし、誰もが歩めるような実践的な書にしたい。
般若心経は極めて論理的に書かれており、数式を丁寧に読み解くようなものである。そして二百六十二文字に凝縮されたその内容は奥深く、これはまさに暗号なのである。そして、本文で明らかにするが、実は暗号にしなければならなかった明確な理由があるのである。
般若心経には、驚天動地の内容が暗号として織り込まれているのだ。
そして、暗号であるからこそ、直訳では絶対に意味は通じないように書いてあるのだ。
従って、般若心経の解釈とは、暗号を解読する作業そのものである。
暗号を解読するには鍵が必要である。そのためには行間に隠された「解読キー」を発見し、行間を埋めて、暗号を解くことになる。
暗号を構成する語句の一つ一つには重要なメッセージが込められている。
一つ一つの語句は、直訳の意味ではなく、重要な意味を象徴している。
それを全体との関係の中で見極めなければならない。
そして、暗号を解いてみれば、般若心経のあれほどの難解さは一気に解消し、実に明快な、そして深遠な般若心経の世界が展開する。
二千年の眠りから覚めた般若心経の真実に、深い感動と喜びを実感していただきたい。
* * *
各節の最初の漢文の後に【漢文直訳】を示し、その後に【サンスクリット語直訳】を示し、その後に、私の解釈した【現代用語による解釈】を示した。
暗号を解くためには、初めに正確な直訳が必要である。原文となるサンスクリット語や漢語に関しては、私は専門ではないので、最も客観的で、漢文や原文のサンスクリット語に最も忠実と思える、宮元啓一著の『般若心経とは何か』【文献一】を選択し、その中の[玄奘訳般若心経]の和訳と[サンスクリット語般若心経和訳]としたものを直訳として使用し、引用させていただいた。
宮元氏は著書の中で、『わたくしは仏教を含むインド哲学を専門とする学者ですので、本書で一学者の、分際を越えた、もののいい方をしたつもりはありません。「般若心経」を正確に読めばこうであると示すのが、私の仕事です』と書いている。
この私は、過去に学術研究者としての経験もあり、如何にも学者らしい姿勢に共感したことから、直訳として引用させていただいた。
一方この執筆においての私は学術研究者ではなく、学術的立場とは対面にある、空の体験者としての立場から書いていることになる。
そして、本書は翻訳ではなく解釈である。解釈は一つとは限らないことは十分に承知の上で、これは私の体験による一つの解釈であることを明確にしておきたい。